日本是個石油和天然氣等能源貧乏的島國。2012年的能源自給率在OECD會員國中是第2低,僅為6%。也沒有辦法由其他國家供給能源的輸電網和管道。
自從第二次世界大戰後工業化以來,日本國內能源需求迅速提高。為了滿足需求,並強化能源安全保障,從1970年代到2000年代,建造了很多核能發電廠。到了2016年日本已經擁有的核子爐上升到了43座,是繼美國、法國之後的世界第3多。
福井縣有11座核子爐,專門供應大阪等關西地區的電力。據關西電力統計,2010年總發電量的44%是核能發電廠所供給的。
大飯發電廠位於福井西南部大飯郡的大島半島,是由關西電力公司所建設並進行作業。大島半島是陸系島,交通很不方便。對居民來說唯一的交通工具是船,定期航班一天只有4班。緊急時必須用手划船來渡過大海。
從1970年代初開始大飯發電廠的建設大力推動、另一方面連接大島半島的743公尺的”青戶大橋”於1974年開通。對於生活在”陸地孤島”的人們來說,這是非常期待的。從這座橋延伸到大島半島的10公里道路的延長工程中,關西電力公司就負擔了22.7億日圓。核能發電廠的建設和道路的延長工程是表里一體的。
不僅是大飯郡,若狹灣沿岸的其他市町也為了振興地區,積極地引進了核能發電廠。結果,從1967年到1972年約5年間建設了9座核子爐,1980年代以後,6個基台開始建造。當地的漁業業者,收取了徵地和漁業權的補償金,改裝自家住宅,辦起了民宿。來海水浴場的客人、釣魚客、在核能發電廠工作的人等等、很多人利用這些設施。1970年代以後,大大地給當地帶來了利潤。核電廠創造了僱傭機會,也帶來了經濟的利益,改變了當地人的日常生活。
當地的人們也開始感到不安。經常發生放射線外漏等事故和糾紛。因為對核能發電的不信任,遊客開始驟減,因為傳聞帶來負評、導致魚也不能賣。反對核能發電的運動也開始活躍起來。當地人長年生活在富裕的同時也承擔了風險。
由於2011年的東日本大地震,福島第1核電廠發生事故,導致對於核能發電的”安全神話”已經完全破滅了。這個事故後,日本的核子爐全部停止了。1973年第1次石油危機之後,優先考慮核能的國家戰略被重新檢討,議會成了一分為二的狀態。脫離核能發電的運動更加活躍,連福井所供應電力的城市也反對核能發電的呼聲也高漲。隨著長達40年的國家能源政策,接受核能發電廠設立的市町村遭到了嚴厲的譴責,當地的人們都非常痛心。
為了重新啟動原子爐,就必須達到福島第一核電廠在事故後所規定的安全標準。2016年十一月福井縣內的原子爐全部停止了。3座舊核電廠也廢廠了。當地的人們對於想回到核能發電廠一起共存共榮的日常生活,與依賴核能發電廠的不安之間,產生了動搖。
將來核能可能會取代太陽光和風力等可再生能源。另一方面,現實問題至今仍舊存在著。與大飯核能發電廠一起生活的6千名以上的人們在那裡各有各自的生活。
【抄訳】
日本は石油や天然ガスなどのエネルギー資源に乏しい島国です。2012年時点のエネルギー自給率は、OECD加盟国の中で2番目に低い、わずか6%です。他国からエネルギーを融通してもらう送電網やパイプラインもありません。
第二次世界大戦後の工業化以来、日本国内のエネルギー需要は急速に高まりました。需要を満たし、エネルギー安全保障を強化するため、1970年代から2000年代にかけて、多くの原子力発電所が建設されました。2016年時点で、日本が有する原子炉は43基にのぼり、米国、フランスに次ぐ、世界3番目の多さとなっています。
福井県には11基の原子炉があり、大阪などの関西地区に電力を供給しています。関西電力によると、2010年の総発電量の44%が原子力発電によるものでした。
大飯発電所は、福井南西部おおい町の大島半島にあり、関西電力が建設し、操業しています。大島半島は陸繋島で、アクセスが悪く、不便でした。住民にとって唯一の移動手段は船で、定期便は一日4便のみ。緊急時には手漕ぎの舟で海を渡らねばなりませんでした。
1970年代初めから大飯発電所の建設がすすめられる一方、大島半島をつなぐ743メートルの「青戸の大橋」が1974年に開通しました。“陸の孤島”で暮らしていた人々には待望でした。この橋から大島半島への10キロにわたる道路の延長工事に、関西電力は22.7億円を負担しました。原子力発電所の建設と道路の延長は表裏一体だったのです。
おおい町のみならず若狭湾沿いの他の市町も、地域振興のため、原子力発電所を積極的に誘致しました。その結果、1967年から1972年までの約5年間で9基の原子炉が建設され、1980年代以降、6基が着工しました。
地元の漁業者は、用地買収や漁業権の補償金を受け取り、自宅を改装して、民宿を開業する人もいました。海水浴客や釣り客、原子力発電所で働く作業員など、多くの人々が利用し、1970年代以降、地元を大いに潤しました。原子力発電所は雇用機会を創出し、経済的利益をもたらし、地元の人々の日常を変えたのです。
地元の人々は不安にもさらされてきました。放射能漏れなどの事故やトラブルがたびたび起こりました。原子力発電に対する不信感から、観光客が激減し、風評被害で魚も売れません。原子力発電に反対する運動も活発化しました。地元の人々は、長年にわたって、豊かさと同時にリスクを負いながら、生活を営んでいたのです。
2011年の東日本大震災により、福島第1原子力発電所事故が発生し、原子力発電に対する「安全神話」が崩れました。この事故後、日本の原子炉はすべて停止しました。 1973年の第1次オイルショック以降の原子力を優先する国の戦略は見直され、議会を二分する事態となりました。脱原発への運動はさらに活発になり、福井から電力を供給してもらってきた都市部でさえも、原子力発電に反対する声が高まりました。40年間にわたる国のエネルギー政策に従い、原子力発電所を受け入れてきた市町が、厳しく非難され、地元の人々は、心を痛めています。
原子炉を再稼動するためには、福島第一原子力発電所事故後に定められた安全基準を満たさなければなりません。2016年11月時点で、福井県内にある原子炉はすべて停止しています。古い原発3基は廃炉となりました。地元の人々は、原子力発電所と共存共栄してきた日常に戻りたいという思いと、これ以上、原子力発電所に依存することへの不安との間で、揺れ動いています。
将来、原子力が太陽光や風力などの再生可能エネルギーに置き換わるかもしれません。その一方で、現実は今、まだそこに存在しています。大飯原子力発電所とともに生きる、6000人以上の人々のそれぞれの生活がそこにはあるのです。